雪が、降る
なにもかもを埋めつくす雪が

あの時のように――



― 箱庭の外で春を告げる者 ―



「やあ、おはよう玄冬!」

暗い空間に、不似合いなほど晴れ晴れとした声が響いた。
辺りは天地すら存在しない一面の闇。
灯りといえるものは、そこここで燐光を放つ惑星(ほし)だけである。

呼びかけられた青年は、惑星のひとつから声の主に目を移した。
先程まで背中で寝息を立てていた存在は、今や満面の笑みを張り付けて立っていた。
やたらと派手派手しい帽子の下の顔が、にこにこと青年のリアクションを待っている。
「…ああ」
ところが、このうえもなく簡潔な返事を返しただけで、青年は再び視線を戻してしまった。

「おや、冷たいなあ。愛しのお父様に朝の挨拶はないのかい、玄冬?」
胡散臭いながらも爽やかだった男の声が一転し、からかうような調子を帯びた。
どうやら簡素な反応が気に食わなかったのだろう、青年に絡むことにしたようだ。
「お前が起きるのが遅いんだ」
それでも、玄冬と呼ばれた青年は、声の主に背中を向けたまま素っ気なく言い放つ。
「それに、おはようもなにも、ここには朝なんかないじゃないか」
「それはそうだが…」
声の主――黒鷹は、不満げに眉を寄せて言葉を接ぐ。
「だがつまらないじゃないか! せっかく起きたのに、愛する者からの目覚めの言葉もないなんてっ」
青年の注意をひきつけるべく、大仰に手を振って主張しはじめた。
「だいたいこの場所は暗すぎるんだよ、唯一の光といったらこの箱庭の光くらいだし。
 こんなにだだっ広いのに朝も昼も夜もないなんてナンセンスじゃないか!」

「…仕方ないだろう。箱庭に影響を与える物が無いように、主とやらが調整したんじゃないか」
玄冬はひとつ溜息をついて、黒鷹のほうに向き直った。
「だいたい、お前がそう言ったんだぞ?」
だがそんなことで怯む黒鷹ではない。
「はっはっは、私が教えたことをちゃんと覚えてたか。偉いなあ玄冬は」
「…あのな」
「だがそれとこれとは別問題だ! いいか玄冬、お父さんはな、お前をそんな愛する人への挨拶もできないような子に育てた覚えは…」
「あー、もう、わかったわかった!」
お決まりのパターンに突入しそうになった黒鷹を慌てて遮る。
これが始まると、子育ての苦労話から思い出したくもない子供の頃の逸話まで延々と語り出してしまうのだ。

「…で?」
遮られた黒鷹は、我が意を得たりとばかりににっと嗤う。
その期待に満ちた表情に、青年は観念したようにまたひとつ、盛大な溜息をついた。

「…お早う、黒鷹」
「よろしい」
黒鷹は、満足げな笑みを見せた。


「ところで、私が寝てる間は何をしてたんだい?」
一通り満足がいくまで『朝の会話』を堪能すると、黒鷹は思い出したように疑問を口にした。その問いに、玄冬は先程まで熱心に眺めていた対象を目で示す。
そこには、硝子質の球体が透き通った光を放ちながらゆっくりと廻っていた。
「…また、箱庭を見てたのかい?」
黒鷹は半ば呆れたように手を腰にやった。
玄冬は、ここに来てからずっとと言ってもいいくらい、来る日も来る日もその球体を眺めていた。
もう幾年も経つというのに、本当に飽きるということを知らない。

「雪が、降ってるんだ」
玄冬がわずかに体を動かして、黒鷹が覗き込む空間を空けた。箱庭を包み込むように添えた手を動かさないように、箱庭に触れないように、細心の注意を払って。
「…どれどれ?」
青年の肩ごしに顔を近づけると、確かに、球体を取り巻く温度がいつもより肌に冷たい。
玄冬が指さした一点に目を凝らすと、見覚えのある街の上に、雪が音もなく降り積もっているのが見える。
あの頃と同じように。

「本当だ、雪だね」
体を起こして玄冬に場所を譲る。
簡素な感想だったが、そこにはある種の共感が込められていた。
青年はそれを知ってか知らずか、多くの人が驚嘆すべきものに対してそうするように、飽きもせず箱庭を覗き込んでいる。

「不思議なものだな。今はこんなに降っているのに、いつかは解けて、流れて春になるんだぞ」
感慨深げに、そう口にした。
もう、雪を恐れる者もいない。終わらない冬に脅える者もいない。
わかってはいても、それが不思議だった。

黒鷹は、幼子のように箱庭を見つめ続ける青年の頭にぽふ、と手をおいた。掌の下でさらさらと動く黒髪が温かい。
「そりゃあそうさ、なんたって玄冬がここにいるんだから」
その言葉に、玄冬は軽い驚きとともに顔を上げる。
「…珍しいな、お前がそんなことを言うなんて」
「ん、何でだい?」
「……ずっと避けてただろ、その話題」
玄冬が口に出すことはあっても、黒鷹から話題にのぼらせることはずっとなかった。
『玄冬』が箱庭に滅びを、終わりを告げる冬をもたらす者であるという事実を。

黒鷹は、自分の息子とも言うべき青年を見つめて、口の端に笑みを浮かべた。
「違うよ。…私が言いたいのは、君が此処にいるから、あの世界には春がくるんだってことだよ」
「違わないじゃないか。俺があの世界にいないから、春がくるんだろう?」

「…そうじゃないよ」
黒鷹は、青年の髪を優しくかきまわす。
「君が此処にいて、箱庭の春を願っているから、春がくるんだよ。…あの世界には」
「…?」
玄冬は怪訝そうに黒鷹を見上げる。
「君、さっき自分で言ったじゃないか。箱庭に影響を与えないために、此処は無に保ってあるって」
黒鷹は出来の悪い子どもをからかうように、ほんの少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「その無の空間に君が存在していることが、箱庭に影響を与えていないなんて、ほんとにそう思ってたのかい?」
「…!! じゃあ・・・」
「そうじゃない。箱庭の理は、此処では道理の外だ」
瞬間的に玄冬の顔に浮かんだ不安を読み取って、青年が口にしようとした言葉を遮った。
「私が言ってるのはね、君がそうやって、いつも箱庭を見つめていることが、箱庭に影響を与えてるってことさ」
「……?」
玄冬は合点がいかないふうに、首を傾げたままである。
黒鷹は、そんな青年の様子に愛しげに目を細めた。
「気づかなかったのかい? 君の掌のぬくもり、君の意志が、箱庭に春をもたらす助けになってるんだ。
事実、『玄冬』は死ななかったのに、箱庭は豊かな春に恵まれている。…先の『玄冬』が死んだときのように」

『玄冬』の死を媒介に、箱庭に繁栄が訪れるというプログラム――我々が箱庭の外に出た今となっては、それは適用されないはずだった。
だが冬が終わり、春が訪れる度に、箱庭の大地は明らかに肥えてきていた。世界は、着実に復興に向かっている。
最初の玄冬が死んで箱庭が滅びを免れたときでさえ、こんなふうに何度も再生の春が繰り返されることはなかった。
「…ずっと不思議に思っていたんだよ、何故こんなにも箱庭の安定が続いているのか。
 だけど最近になってようやく解った。…玄冬、君がいるからだ」
この無明の空間に君がいる。それこそが。

「……俺の、せい?」
玄冬は、掌を見つめながら、恐る恐る口に出した。
「…俺が、春を呼んでいるのか? …あの世界に」
「ああ」
黒鷹は万感を込めて頷く。

「…じゃあ、俺は」
何度となく心の中で繰り返した問いを口に上らせる。
「俺は…いてもいいのかな、此処に?」

不安だった、本当は。
自分が此処にいれば箱庭が滅びることはない。それがわかってはいても。
たくさんの人の生を奪った、ただ一人すらも救えなかった俺が、こんなところでのうのうと生きている。黒鷹を巻き込んでまで。
季節が廻り始めた箱庭を眺めることは代え難い喜びだったけれど、黒鷹は構わないと言ってくれたけど、あのころ感じていた罪悪感が胸を去ることはなかった。
ずっと。

「俺は…いてもいいんだな? …此処に」
もう一度、繰り返す。今度は微かな意志を込めて。
「…ああ、勿論だ」
確信に満ちた、黒鷹の声が耳に優しい。

「…春告げの鳥なんだよ、君は。誰よりも春を願う者なんだから」




雪が、降る
すべてを埋めつくす雪が

だが、終わりを告げる者はもういない
世界は春に向けて廻り続ける

静かな意志に包まれて――





月影かとりさんこと、あきらさんへの捧げものです。

彼女の日記の『玄冬は春告げの鳥なんだー!』という熱い主張に心討たれて(誤字)
偶然にもちょうどこのころ書きかけていた黒崎的“玄冬春告げ”小説を一気に書き上げてしまったものです。
当初はひっそり死蔵する予定だったんですが、有難くもあきらさんのサイトで紹介していただいています。

でもこの小説、この理屈だとほっとけば玄冬のせいで温暖化が起こるんだよね…

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